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A. 次の文章の[一][に][三][四]を読んで、21~40の問いに答えなさい。答えは選択肢[A][B][C][D]からもっとも適切なものを1つ選びなさい。(2点X20=40点)
[三]
現在はどうだかわからないが、ロシアガソ連(苏联)だったころ、男の人も女の人も、一歩家を出る時は必ず、買い物袋を持っていたという。どうしてかというと、いつ、自分の欲しいものが売りに出されるかわからないからなのだそうだ。
そのソ連では、街を歩いていて行列ができていると、人は必ず、とにかくその行列の一番後ろに並ぶという。何のための行列だかわからなくても、まず並ぶのだそうだ。
その列は、りんごの売り出しのための列かもしれない。牛肉の列かもしれない。トイレットペーパーの列かもしれない。とにかく並んでみて、自分が欲しいものであったならば、例のいつも持ち歩いている買い物袋を引っ張り出して、その品物を買うというわけである。こういう時のために、ソ連の人はいつも買い物袋を持って歩いているのだ。
この買い物袋のことを、ロシア語では「アボシカ」という。そしてこのアボシカの本来の言葉の意味は「もしかしたら······」という意味なのだそうだ。
私はこの話を聞いた時、ふっと自分自身の日常生活を考えた。
もちろん、出掛けるごとに買い物袋を持って行く······などということはしていない。たとえ外で何かを急に買ったとしても、日本では、その品物は袋に入って渡されるから、その必要性もないのである。
確かに便利ではあるけれど、私たちは、こうした行き届いた暮らしの中で、少しずつ、何かを忘れてしまっているような気がする。
人は、今日( ア )を知らずに生きている。まるでソ連の人が家を出る時のように、私たちも一日を生きているのである。
もしかしたら、心が洗われるような音楽に出会うかもしれないし、人生を変えてしまうような本に出会うかもしれない。考え方を改めるような映画に出会うかもしれないし、心の支えとなるような人に出会うかもしれない。涙ぐむような光景に出会うかもしれないし、力強い言葉に出会うかもしれない。
どんなものにぶつかるか、私たちは何も知らずに生きているのである。
果たして私たちは、そんな大切なものに出会った時、それを自分のものにしてしまえるような買い物袋を持っているだろうか。
せっかくいいものに出会うことができても、それを自分の心の中に取り込まない限りは、ただの「いいもの」で終わってしまう。自分の心で感じ、自分の頭で考え、それを自分のものにしなければ、何もならないのである。
品物は、確かに袋に入れて渡してくれる。けれども心が欲する何かは、剥き出しのまま、ポンと私たちの前に落ちるだけである。それを入れる袋は、私たち自身の心の中にしか存在し得ないものだ。誰かが袋をくれるわけでもない、拾ってくれるわけでもない。自分で拾って、自分の袋に入れるしか方法はないのである。
心のどこか片隅に、いつも「アボシカ」を持って生きていたいと思っている。
31. 文中の「この話」とは、どんなにことか。
[A]ソ連の人は、街でできている行列がなんの行列かわからなくてもまず並ぶこと
[B]ソ連人は欲しい物にあったら、いつでも買えるように買い物袋を持ち歩くこと
[C]日本人は、出掛けるごとに買い物袋を持っていくようなことをしていないこと
[D]買い物袋を「アボシカ」というロシア語の意味は、「もしかしたら」であること
32. 文中の「行き届いた暮らし」とは、どのような暮らしか。
[A]必需品を買うために並ぶことを経験したことがないような豊かな暮らし
[B]昔の物不足の生活をきれいに忘れてしまった現在のような豊かな暮らし
[C]出かける時に何かの売出しの列を探さなくてもいいような便利な暮らし
[D]そとでの買物のときも品物は袋に入って渡されるような便利な暮らし
33. 文中の( ア )に入れるものはどれか。
[A]何に出会うか
[B]何が変わるか
[C]何をなすべきか
[D]何が売られるか
34. 文中の「それ」は何を指すか。
[A]私たちの目の前に現れた自分の心が強く求めているもの
[B]ようやく手に入った包装されていない非常に大切なもの
[C]外出先で偶然に発見して購入する前から欲しかったもの
[D]道場で拾えない自分が努力してはじめて入手できるもの
35. この文章で筆者がもっとも言いたいことは何か。
[A]私達は不便な生活を強いられても上手に対応できるような意識を持つべきだ。
[B]私達は誰かが渡してくれたものの中からいいものを発見する目を持つべきだ。
[C]私達は精神的食糧になる何かを自ら取り入れようとする心構えを持つべきだ。
[D]私達は昔のソ連の人びとの困難に負けないような楽観的な精神を持つべきだ。
[四]
医者の前に座る患者は無力である。無力で哀れな存在である。患者の無力感を象徴するかのように、小さな、丸い腰掛けが置かれている。患者はこの上に腰を下ろさねばならない。
( ア )、医者は堂々としている。権威のある、頼もしい存在である。あるいは、そういう存在でなければならない。医療というのは、今もなお、呪術的一面を残しているものだから、医者が無力で哀れな存在であれば、ショーバイつとまらないのである。それかあらぬか、医者はたいてい、肘付きの堂々たるいすに座っている。いすの肘は、医者がこれに、手ないし肘をのせて、堂々と患者に対することを期待している。そもそもいすの肘というものは、医者の役割に対する社会的期待の象徴である。
残念なことに、医者のいすはしばしば、くるくる回る子供っぽさをも兼ね備えている。患者のからだを多方面から観察、辕煠筏皮い毪?人激Δ取ⅳ?毪辘确?盲皮膜?à讼颏?ぁ?I方その他のビジネスに立ち向かわねばならない。ビジネスをせねばならあぬという状況そのものが、若干の幼稚さを医者のいすに強制しているのである。
医者にとって気の毒なことは、いすが少しも安楽ではないことである。安楽というのはいすの大切な目的の一つであろうに、辕煠韦郡幛韦い工习矘Sではない。安楽いすや揺りいすに座って、ずばり、远悉蛳陇工长趣想yしかろう。というわけで、正姿勢で患者と対面する。対面しつづけなければならない、ここのところが問題だ。
患者は確かに哀れな腰掛けに腰を下ろしている。が、何分かの辛抱である。医者の方は、肘付きいすに何時間も縛り付けられていなければならない。何時間も同じ姿勢を取りつづけること。これが体に良くないことは自明である。自明のことを、からだの専門家である医者もやらなければならない。気の毒だと思う。私は気の毒だと思うけれど、世間には無情な人もたくさんいて、医者の平均寿命の長くないのをからかう人もいるという。いけないことである。
一つには、権威である。
もう一つは、安楽である。
36. 文中の( ア )に入れるものはどれか。
[A]もしくは [B]そのうえ [C]いっぽう [D]ところで
37. 文中の「医者の役割に対する社会的期待」とは、どのようなものか。
[A]権威のある、呪術的な一面を多少残す存在であるべきだ。
[B]権威のある、患者にとっては頼もしい存在であるべきだ。
[C]権威のある、患者に哀れな一面を示さない存在であるべきだ。
[D]権威のある、率直に自分の無力感を訴える存在であるべきだ。
38. 文中に「若干の幼稚さを······強制している」とあるが、なぜそのようになったのか。
[A]医者は無力な患者に面白さを感じてもらわなければならないから
[B]医者にビジネスに携わるための便利さを提供せねばならないから
[C]ビジネスをせねばならない医者にすこし安楽を感じてほしいから
[D]気の毒な医者に強制的にでも子供っぽい性格を持ってほしいから
39. 文中に「気の毒だと思う」とあるが、それはなぜか。
[A]医者は無力で哀れな患者に対して、堂々として远悉蛳陇护胜?龊悉猡ⅳ毪?
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